東日本大震災 支援⑨ 気仙沼・冬
投稿日 2012年01月27日
<あの日>から10ヶ月経た気仙沼を、再び訪れました。そこで見たのは、5月に訪れたときと同じく、私たちの想像を超えた自然の力の凄ましさです。瓦礫の撤去が進む被災地域は広大な荒野となり、たとえそこに再び街が出現しても、以前の営みが刻まれるのは記憶のなかだけかもしれません。しかし、その荒野には自分たちの暮らしを取り戻すだけではなく、新たに作り出そうとする方たちの熱き想いがありました。
東日本大震災の津波が気仙沼市にもたらした瓦礫は、約137万トン(新幹線「のぞみ」約19,000本[編成]に相当)。その約32パーセントが、撤去されました(気仙沼市1月14日発表)。瓦礫に埋もれていた場所の多くは、いま更地に近い状態になっています(→写真右)。しかし、市内には仮設のプレハブ家屋以外新築建築は見当たらず、再建は進んでいません。被災した土地の乱開発を防ぐために実施された建築制限が解除された地域でも、都市計画が決定していないので新たな建物を建築しづらいのです。気仙沼湾に面する市街地の一部は、70センチ以上の地盤沈下で海水が引きません。湾のいちばん奥・鹿折地区では、津波で海から約800メートルも打ち上げられた『第18共感丸』(330t)が、市の計画で震災の記録モニュメントにするため解体されず残されています(↓写真下大)。
スローフード気仙沼のメンバー小野寺靖忠さんは、津波で自宅と市内で経営するコーヒーショップを2軒を失いました(←写真左)。カフェラテが美味しいと評判だった小野寺さんの『アンカーコーヒー』は、コーヒー豆にこだわり自家焙煎をしていました。仕事でアメリカ西海岸を訪れる機会が多かった小野寺さんは、「豊かさには、選択肢の多さも重要です。生まれ育った気仙沼に新たなライフスタイルを提案したかった」と、2005年シアトルスタイルのコーヒーショップを開店しました。そして、昨年の3月11日、店舗が増え5軒になった頃、漁港近くの本店と少し離れた支店を津波に飲み込まれました。しかし、小野寺さんは2ヶ月後店を立て直すファンドを立ち上げます。そして、昨年暮れの12月23日、市内・田中前4丁目の仮設店舗で店を再開したのです(↓写真下)。 再開した『アンカーコーヒー』には、 <この地より再び船出する、乗組員と共に、気仙沼と共に、海と共に> と記すポスターが張り出されていました。
スローフード気仙沼の理事長・菅原さん。「私たちは東日本大震災で被害を受けたから、気仙沼の復興を語っているのではありません。私たちはこの地域の復興を、スローフードジャパンが発足する前から掲げていました。スローフードの支部を作ったのは、その考え方にたまたまスローフードの理念が合っていたからです。だから、漁業と関わりの深い気仙沼を活性化させるために、2004年にイタリアで開かれた<スローフィッシュ>にも参加しました。震災後のいま訴えることも、いちばん重要なのはスローフードが理念とする『人間の復興』です。いま、何か新しいことを訴えているのではないのです。私たちが望むことに意味付けし、広めるのがスローフードの役割だと思います」(→写真右上は、菅原さんの事務所。1,2階が津波に流され、3階部分だけそのまま落ちた)
スローフード気仙沼はスローフードすぎなみTOKYOとは異なり、飲食業に携わる事業者の方たちが多い支部(コンビビウム)です。スローフードの<おいしい、きれい、ただしい>というスローガンは、生産者や消費者だけに向けられているのではありません。飲食業に関わるすべての人たちに、「食」の在り方を問いかけています。漁業と海産物加工の町気仙沼では、復興の入り口と出口にスローフードがある、と菅原さんは言います。

2012年1月のある夜、仮設店舗の居酒屋で、スローフード気仙沼のメンバーと酒を飲み交わしました。皆さんは気仙沼の現実と復興を明るく、たくましく、熱く語ります。そして、その熱き想いが、私たちが被災地に持つ思い込みや誤解、独善を吹き飛ばすのです。私たちは気仙沼のメンバーに、元気をたくさんいただきました。
昨年の3月14日、大震災の発生にともない、スローフードジャパン・東京/神奈川ブロックはスローフード気仙沼を支援する緊急アッピールを発表しました。 → http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/03/1361/ そのアッピールに応えてくださった全国のコンビビウムやこのページの閲覧者の方々、とくに、チャリティイベントを開き支援金を送ってくださったスローフードベルリンの仲間に伝えます…。→ http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/04/1489/
スローフード気仙沼は、元気です!!
東日本大震災 支援⑧
宮城県・長面(ながつら)浦の焼きハゼ
投稿日 2012年01月20日
東日本大震災は、私たちの味覚にも痕跡を残します。
仙台の雑煮に欠かせない焼きハゼで、もっとも伝統的な長面(ながつら)浦の焼きハゼが消えてしまうかもしれません。
それぞれの地域で、数少ない生産者によって受け継がれてきた食材・食品を残す活動は、スローフードが提唱する重要なテーマのひとつです。
<長面浦の焼きハゼ>は、2005年ほかの8品目とともに日本で初めてスローフードの「味の箱船(ARK)」に選ばれました。「味の箱船」とは、このままでは消えてしまう伝統的な食品・食材を、世界的なガイドラインに沿ってリストアップするスローフードの国際的なプロジェクトです。焼きハゼは松島湾などでも作られていますが、<長面浦の焼きハゼ>には焼いた後に煙で燻す古い製法が残されていました。また、その製法を代々受け継いできた事が評価され、「味の箱船」にリストアップされたのです。
(←長面地区の子供たちが通った大川小学校で。ここで、74人の児童が犠牲になった)
長面浦は北上川の河口に接する海水が出入りする湖で、周囲8キロほど。牡蠣の養殖やハゼ漁が行われていました。その湖に面した長面地区は津波のために漁港も含めたすべてが失われ、満潮のときは地震による地盤沈下で、住宅地のほとんどが海水に浸されます。震災前、約500人が住んでいた長面では、69人が亡くなり25人がいまも行方不明です。焼きハゼを作っていた榊照子さん(68)のお父さんの遺体が見つかったのは、9月17日でした。
追波(おっぱ)川河川運動公園の仮設住宅で、照子さんは語ります。「被災後は、長面浦には行きたくありませんでした。でも、6月に避難所からここへ移り、7月に船が瓦礫の中から見つかったので、せめて漁網だけでも注文しようと思いました。父の遺体が見つかったのは、9月です。スローフード宮城の方は、震災直後から何回も訪ねてきて、焼きハゼ作りの再開に協力を申し出てくださいました。長面浦では、ほかの魚はほとんど獲れなくなったのに、ハゼだけは獲れるんです。それで、もういちど作ってみようと決めたのは11月頃です」 照子さんは、12月に50連約600匹の焼きハゼを作りました。 (↑写真上 左・榊照子さんの家があった周辺。 写真上 右・潮が満ちてくると海面になる、と言う。→写真右 上・運動公園の仮設住宅。写真右 下・左側が照子さん。右側はお母さん)
しかし、スローフード宮城とスローフード仙台のメンバーが壊れた車庫を利用して作った、ハゼを焼くための仮作業場はもうすぐ取り壊されます(↓写真下)。次の作業場は、場所さえまだ決まっていません。また、岸壁も全壊したため、ハゼ漁に使う船はかろうじて残った堤防の片隅に係留されています(←写真左)。<長面浦の焼きハゼ>作りは、この冬なんとか再開できたものの、来シーズンの見通しは立っていないのが実情です。スローフード宮城とスローフード仙台では、<長面浦の焼きハゼ>復活募金を、下記のように行っています。
①募金額 / 一口¥3,000円(少額でも、何口でも結構です)
②振込先 / 杜の都信用金庫 本店営業部
口座名義: スローフード宮城
口座番号: 普通預金 1581336
<長面浦の焼きハゼ>がリストアップされている「味の箱船」は、スローフードが考える生物多様性につながっています。スローフードが考える生物多様性は、科学的な意味での多様性だけではなく文化としての多様性です。そして、味覚は文化の多様性を語る要素のひとつです。 <おいしい・きれい・ただしい>を掲げるスローフードの原点は、そこにあります。 <長面浦の焼きハゼ>が姿を消すとき、それは何を意味するのでしょうか……。
東日本大震災 支援⑦2011年大晦日
私たちは、忘れません!!
投稿日 2011年12月31日
(ページの更新が、本年8月以降止まっていたことをお詫びします)
今年、2011年は日本の歴史に深く刻まれた年でした。
歴史だけではなく、東日本大震災の被災者の方々をはじめ、多くの人々の心に深く刻まれた年でした。
私たちはそのなかから歩み始めます。
東日本大震災は、三つの顔を持っていました。ひとつは、巨大な地震・津波が生んだ自然災害の顔。二つめは、原子力発電所を設置した国の政策が生んだ人為的災害の顔。そして、三つめはそれらの災害により、私たちの生き方を問う顔です。二つの災害が私たちに教えたさまざまなことは、これからの日本の在り方を考えさせます。新たな社会を考えるうえで、スローフードが掲げる「食」の“おいしい・きれい・ただしい”という理念は欠かせません。そこには、生きる楽しさ、喜び、確かさが語られているからです。
スローフードの国内組織・スローフードジャパンには、日本内外から約127万円の支援金が寄せられました。これに国際本部からの負担金の免除(約165万円)を加えた300万円あまりの使い方が正式に決められたのは、震災から9ヶ月以上たった今月(12月)でした。支援金は、被災地のコンビビウム(支部)に分配され、また被災会員の会費免除に使われます。しかし、スローフードジャパン独自の被災支援プロジェクトや復興プランは、現在まで打ち出されていません。スローフードの活動は各コンビビウムによって支えられていますが、いまこそ国内組織としての、そして私たちの会費の約半額が納入されるスローフードジャパンが、リーダーシップを発揮するときです。被災地日本のスローフードが、世界のメンバーに向けて震災からの復興を宣言する日は来るのでしょうか?
私たちスローフードすぎなみTOKYOを含むスローフードジャパン・東京/神奈川ブロックは、東日本大大震災に際し「顔が見える相手を直接支援」するために、いち早くスローフード気仙沼の支援を決めました。そして、5月3日、全国各地のコンビビウム、スローフードベルリンなどから寄せられた約94万円の支援金を現地気仙沼で手渡しました。さらに、スローフードすぎなみTOKYOはおもに原発災害の影響を受ける生産者を支援するために、高円寺あずま通り商店街の協力により「被災地復興マルシェ」を4月と11月に開催し、それらの活動を記録した短編ドキュメンタリー映画『二つの悲劇 ─東日本大震災とスローフード運動』を製作しました。この作品は、6月にモロッコで開催されたスローフードインターナショナル国際理事会で、10月には山形国際ドキュメンタリー映画祭2011(写真左下)でそれぞれ上映され、来年(2012年)は映画を自主上映をする市民団体の被災支援プロジェクトとして全国各地で上映される予定です。
私たちは、被災地の支援とともに、これまでの活動も続けています。4・5・6・10・11・12月の第3土曜日には、高円寺の劇場「座・高円寺」のエントランス広場で「座の市」を開催しました。また、6月11日に行われた「親子で知ろう! ほんとうの味」はパエリアを取り上げ、13回目を迎えました。これは、毎年杉並区立第4小学校で行われている味覚教育で、スローフードすぎなみTOKYOの活動の中心のひとつです。さらに、この味覚教育の拡大版として6月25日、住民の過半数を外国人が占める新宿区大久保で、そこに住む外国人親子に日本語を教えるボランティアの方々と一緒に、日本の「食」を伝えるために<「課外授業・おにぎり弁当作り」>を行いました。私たちのメンバーに生産者の方は一人しかいません。しかし、私たちはともすればスローフードの理念とは正反対の場所だと考えられがちな都会の片隅で、地域に密着したスローフードの運動をしています。これらの活動は、来年も継続して行う予定です。(写真右上:「座の市」 写真右中:杉並第4小学校の「親子で見つけよう! ほんとうの味」 写真右下:「親子日本語教室・課外授業」おにぎり弁当作り)
12月3日、スローフード長崎は「テッラ・マードレ in 雲仙」を長崎県雲仙市で開きました。来場者は、約1,000人。会場にスローフードが全国からリストアップした「味の箱船」(少生産者による伝統的な産物)の食材・食品が展示され、生産者や産地の小学生たちの発表・討論などが行われたました。テッラ・マードレとは、直訳すると「母なる大地」を意味する生産者の会議で、これからのスローフード運動の中心となる催しです。スローフードはいま、農業と真摯に向き合うすべての生産者に寄り添おうとしています。テッラ・マードレ in 雲仙では、日本のスローフード運動の再生へ向けて、生物多様性を踏まえで生産システムの転換を訴えるメッセージが、参加者によって宣言されました。→「にぎわいのある社会の実現を目指して」
来年(2012年)、スローフードは大きな転換期を迎えます。スローフード運動の創始者で、25年にわたって活動を牽引してきたカルロ・ペトリーニ会長が引退するのです。25年前、イタリアの小さな村ブラから始まったスローフード運動は、その創始者の引退によりこれまで築かれてきた人的パイプが変わり、各国の国内組織は今後独自の運動の展開を求められるでしょう。そのとき、私たちは日本のスローフード運動の目標として具体的に何を語れるのか・・・、日本のスローフードはその真価が問われます。
スローフードは、私たちの言葉です。
12月18日、原発災害の被災地福島を訪れると、スローフード福島のメンバーが農地の放射能除染を試みるため、ときおり小雪が舞うなかで、孟宗竹を砕き「竹粉」を作っていました。
私たちは、被災地のコンビビウムの方々と共に歩みます。
7/30(土)スローフードのあつまりに佐藤栄佐久前福島県知事と須藤陽子さん参加
投稿日 2011年07月24日
スローフードジャパン理事会に合わせ、全国の理事が集結します。
18時からは懇親会「あつまり」を開催。
スローフードに関心のある方ならどなたでも参加できます。
「あつまり」では、佐藤栄佐久前福島県知事のミニ講演会を準備しています。
佐藤栄佐久さんは県民の安全を優先して原発推進に待ったをかけた知事として有名でしたが、福島を愛し、福島の食についても造詣が深い方です。http://eisaku-sato.jp/blg/
また、スローフード福島リーダーの須藤陽子さんが、福島から参加されます。http://youkosudou.blog.ocn.ne.jp/
(福島市内のすどう農園・須藤陽子さんと連絡取れました~原発被害と生産農家(3/19)http://ameblo.jp/toshi-shun/entry-10834631338.html)
無農薬・無化学肥料で畑づくりをされてきたのに、こんなことで畑を使えなくなってしまった無念さはいかばかりか、と思います。
現地の話を聞きながら、スローフードとして何ができるのかを皆で検討したいと思います。
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■スローフードの「あつまり」
日時:2011年7月30日(土) 18:00~20:30
場所:水道橋グランドホテル(東京都文京区本郷1-33-2 03-3816-2101)
http://www.hatago.co.jp/access.htm
料金:料理はビュッフェ、飲み放題付 おひとり様 5,500円(予定)
定員:先着50名(7/27締め切り)
申し込み:info@slow.or.jp または、山本(070-5407-0141)まで
(以下、福島が地元の石田さんによる、佐藤栄佐久氏についてのコメント)
…………
私はジャコモと一緒に郡山まで会いに行ったことがあります。福島の産品に非常に詳しく、ご自身でもよく研究されていました。
相馬に残っていた浅草海苔のリサーチや、消えかかっていた福島の天津桃を公園に植えさせたり、皇族が愛した福島のまくわうりを農家を巡って探したり、福島の地域種ではなくとも、かつて親しまれていた福島の味を探求されていました。(石田雅芳)
補足説明:東北被災地取材DVDの上映
投稿日 2011年07月15日
6月11日、モロッコの首都ラバトで開かれたスローフード・インターナショナルの国際会議の席上、ぼくが製作・監督した短編ドキュメンタリー作品(英語) が、スローフード・インターナショナル事務局によって、上映されました。
その上映の経緯について、補足説明します。
5月15日、スローフードジャパン副会長で会議に出席する、SFすぎなみ代表の佐々木さんにお会いしたとき、この作品の国際会議での上映を、インターナショナル事務局に申し入れるようにお願いしました。しかし、佐々木さんからは、「無理でしょう」との返答でした。また、同じく会議に出席するSF秋田の会長でスローフードジャパン副会長の石田さんにも、そのとき電話でお願いしましたが、明確な返答をいただけませんでした。
その後、佐々木さんからも、石田さんからもこの件に関しては、全く連絡がありませんでした。
そこで、ぼくはスローフード・インターナショナル事務局長のパオロ・クローチェさんに直接連絡を取りました。
すると、作品を観たいのですぐに送ってくれ、との要請があり、6月1日、パオロさんと、英語が苦手なペトリーニ会長にはイタリア語版の作品を、Fedexで発送しました。
あとでわかったことですが、作品を観たパオロさんが、国際会議での上映を決めました。ただし、会議が行われるアラブ式の中庭には上映設備がなく明るいので、屋内で開かれる昼食の時に上映することになったそうです(パオロさんの秘書シモーナさんの話)。
ラバト現地で、パオロさんと佐々木さんとの間に実際にどんな遣り取りがあったのか、ぼくは知りません。しかし、パオロさんはこの作品を事前に観て、インターナショナル事務局として会議で上映する価値がある、と判断しました。上映が実現したのは、彼が、地震・津波と原子力発電所の爆発に被災した日本からのメッセージを紹介することに、意味を認めたからです。パオロさんは、けっして好意や同情で上映を決めたわけではないと思います。
6月6日の夕刻、佐々木さんにお会いし、この作品をパオロさんとペトリーニ会長に直接送った事を伝えました。そして、作品のコピーを渡し、SF気仙沼の菅原さんを訪ねたときにぼくが購入した日本酒『蒼天伝』を一本、ペトリーニ会長に直接届けてくださるようお願いしました。(なかに、ぼくからペトリーニ会長へ宛てたカードを入れておきました)
じつは、この作品の上映に協力してくださったのは、SFすぎなみのメンバーで、スローフード食科学大学日本事務所の原さんでした。ぼくや原さんと、パオロさんの秘書シモーナさん、ペトリーニ会長の秘書ラウラさんとのmail、電話での度重なる遣り取りを、佐々木さんはご存じないようです。
この作品を、ある国際的な映画祭で上映する計画もあります。そのような作品が、スローフード・インターナショナルの国際会議で上映された経緯を、誤解なく理解していただくために、あえて補足説明をしました。
作品の日本語版『二つの悲劇 ─東日本大震災とスローフード運動』(英語版原題/From a country Struck by Twin tragedies…/DVD20分)も、ほぼ完成しました。
皆さんにもご覧いただく機会があるかと思います。
現地ラバトでは、佐々木さん・石田さんに御協力をいただき、感謝しています。
スローフード国際会議 in モロッコ(2011.6.11)-③ 東北被災地取材DVDの上映
投稿日 2011年07月12日
会議2日めの昼食時。
SFすぎなみのバッテンさんが製作したDVDを上映しました。
20分間ほどの長さで、スローフード国際事務局長のパオロ・ディ・クローチェ氏が、
「会議で流すのはとてもムリだね。でもせっかくだからなんとか流したらいいと思う。時間が取れるとしたら昼食のときだね。それも、メインディッシュを終えて、デザートのタイミングくらいからだろうか」
と、細かくタイミングを図ってくれて、スタッフのシモーナさんと石田さんと下準備をして、昼食に臨んだのでした。
4月に採択された、和紙に書いた「スローフードジャパン東京宣言」を丸めて持ってきてありました。
それを壁に貼り、石田さんが、宣言文の内容についてイタリア語で説明しました。
DVDの上映が始まると、みんな真剣に見て下さいました。
高円寺で行った「被災地応援マルシェ」の様子、スローフード福島・須藤さんや遊佐さん、田島さんへのインタビュー、スローフード沖縄・奄美の田崎さんらの福島農家受け入れ説明会、スローフードベルリンのチャリティ夕食会、スローフード気仙沼・菅原さんに義捐金を届けたときの様子等々が収録されています。
上映終了後、スローフード・ベルリンのラルスさんに謝意を述べみんなの前で握手をすると、大きな拍手が起こりました。
ラルスさんは、
「ああいうイベントは初めてだったけど100人以上の人が熱心に参加してくれた。お役に立てたのはほんとうに嬉しいです。DVD一枚もらえませんか? ネットにアップしたいのです」
というので、手持ちの一枚を渡しました。
国際理事でスローフードドイツ副会長のウルスラさんが、
「彼らの活動を誇りに思います。ネットにアップして皆が観られるようにしたいのだけど、可能ですか?」と言われます。
音楽の部分が著作権に引っかかる可能性があることをバッテンさんから聞いていたのでそこをお伝えしました。
最後にカルロ・ペトリーニ会長に気仙沼・男山本店のお酒「蒼天伝」を、
「津波を生き抜いたお酒です。長生きのしるし、とも言えるかも知れません」と言って手渡すと、再び拍手が上がりました。
昼食はこうして散会。
メキシコのラウル・ヘルナンデスさんが、力強く握手をしてくれました。
ラルスさんたちベルリンのメンバーは、来年、来日する予定です。
その前に何人かで下見に訪れるかも、と言われてました。
今度は東京でお会いできるのが楽しみです。
スローフード国際会議 in モロッコ(2011.6.11)-②
投稿日 2011年07月01日
現地時間の6/11、モロッコにおける国際ガバナー会議におきまして、スローフード協会会長のカルロ・ペトリーニ氏が巻頭スピーチを行いないました。
その内容を、石田雅芳さんがまとめてくれましたので、以下に掲載します。
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カルロ・ペトリーニ会長の挨拶
(2011.6.12 モロッコ・ラバト市にて)
スローフードの国際運動22年目にして、ガバナー会議が初めてアフリカ大陸で行われる運びとなりました。これは政策的、文化的意味合いを持っています。ここ4年間でアフリカの運動は飛躍的に進展しました。会員数やコンヴィヴィウム、活動も増えました。オーガナイズをしてくれたモロッコの方々に感謝いたします。オーガナイズに対して、そしてズビーダさんに。
福島支部のリーダーには、彼らに対する私たちの団結心を伝えたいと思います。これから長い期間に渡って、被害を受けるかもしれませんが、協会はこのような状況にあっても、いつでも私たちが側にいることを伝えたいと思います。
歴史的なイベントである2007年のプエブラ国際大会から、すでに皆様にお伝えしたように、2012年まで1年間開催をのばすことを考えています。この4年間でいろんなものが変わりました。運動は発展をとげました。テッラ・マードレという世界唯一のイベントが、協会に重大な刻印をしました。2004年は2つの重要な出来事がありました。テッラ・マードレと60人の学生を迎えての食科学大学の創立です。2007年の世界大会には食科学大学の学生も参観しました。新しい国際理事組織に、副会長として若い学生だったジョン・カリユキを迎えたのは勇気のいる選択でした。
2004年の第一回テッラ・マードレには、農業者、漁業者、職人などが、120カ国より集まりました。何か新しいものが生まれようとしていました。それは生物多様性や、持続性のある小さな産業を支える人々の尊厳など、人々に共通なテーマを掲げたネットワークでした。これがスローフードをまったく違うものにしました。
毎年のように新しい刺激が協会にやってきます。ポッレンツォへは50カ国の学生がやってくるようになりました。それは若者やテッラ・マードレによるネットワークに発展しました。ここでは大きなネットワークとコミュニティ意識が醸成されたのです。学生が皆さんの国で実習する時には、みなさんの情熱と歴史をぜひ伝えてやってください。実習は良きことを共有する精神を持った人々に支えられています。この実習はどんな科目よりも有効なものです。ホリスティック(総合的)で完全な視野をもたせ、学生は実習を通して成熟し、認識を新たにするのです。
テッラ・マードレは4回行われました。2010年の4回目にはトータルで6000ものコミュニティ、173カ国のネットワークに成長しました。人は「たった4日間で人生を変えられるか?」と問いますが、私はイエスと答えたいと思います。そして参加者した人々と世界がそう答えることでしょう。私が旅行先で聞くのは、アフリカや南アメリカで「テッラ・マードレが力を与えてくれた」という声です。アメリカやヨーロッパなどの豊かな国でも、テッラ・マードレは変化への自己啓発となっているのです。テッラ・マードレはビューロクラシーなしに帰属意識を生み、貴重な人間関係や友情を生みました。
プエブラは私たちにとってスタートでしかありませんでした。2007年から今日まで、まかれた種は成長しました。力をももったのです。この植物は主格を待っている状態なのです。
どのくらいの変化があったかを皆で認識しましょう。2007年には5−6万人だった会員数も、今や10万人です。700のコンヴィヴィウムは1500になりました。その活動はアフリカにも広がり、6—7コンヴィヴィウムから40カ国に広がる50以上のコンヴィヴィウムに増えたのです。これらはテッラ・マードレの子供たちと呼ぶことができるでしょう。アジアやラテンアメリカでもテッラ・マードレはコンヴィヴィウムを増やすのに貢献しました。テッラ・マードレによってスローフードはより確固としたものになり、テッラ・マードレはよりアナーキーなものに成長しました。
ここから2012年にかけて協会はもっと成長をとげるでしょう。より若い力を取り入れ、スローフードの政策面も、環境への責任ある政策、持続性、国際性、ガストロノミーの新しい概念、それは総合的な視野にたったもので、完全で、おいしい、きれい、ただしいを体現したものになるでしょう。「おいしい、きれい、ただしい」のモットーは、スローフードの外でも使われるようになりました。それもすべての言語で。
プエブラでは生まれたばかりの概念でしたが、いまやどこでも使われています。スローフードはこのスローガンなしには語られなくなりました。すべての食コミュニティでも使われています。今年3月にポッレンツォで承認されたように、国際大会は1年延期されます。でも2012年は情熱のほとばしるような一年になるでしょう。情熱がなければ皆さんもこの席に着いていないはずです。情熱と友情がスローフードのフムス(土壌)なのです。
来年は情熱的な年になるでしょう。スローフードはよりテッラ・マードレに近く、テッラ・マードレはよりスローフードに近づきます。あちこちから声が届き始めています。スローフードはエリート団体だとか、グルメ団体であるという人間がいるが、テッラ・マードレが私たちにこう言わせてくれるでしょう「そんなことはない!」と。
あらゆる人々の共通の価値として、食の喜びをすべての人が享受すべきです。イタリアやフランスの食が人類の遺産なのか?いや、世界のすべての食が私たちの遺産なのです。それはこの町のメディナで見たように、智慧と文化、味覚の結晶したものです。それをスローフード全体で認識しましょう。「食の権利をすべての人に」「食は人類の権利」食べれない人がいるなら、権利に背くこととして、彼のコミュニティが解決するべきです。
すべての生き物は食への権利をもっています。世界の憲法、法律、経済がこれに沿うように。食べれない子、食べさせられない母がなくなるように。これらのことを理解させるのは難しいことです。いまだ従来のガストロノミーにしがみついている人たちがいます。ワインの香りにつられて入会した者もいるだろう。(そのような人も維持すべきではありますが)、これが2007年ころの状況でした。
当初はテッラ・マードレに来ようとしない人がいました。このイベントの潜在力を理解しなかったからです。来年テッラ・マードレは5回目の開催となります。テッラ・マードレとスローフードの結婚とでもいいましょうか。
アリスウオーターが、パッチワークの比喩を使っていました。つまりコミュニティは1つ1つの布切れであり、スローフードはそれらを縫い合わせる糸であるという考え方です。色も材質も違ったいろんな布切れを準備しましょう。
テッラ・マードレに参加した食科学大学の18歳の学生が言った言葉です。この子はスローフードも何も知りませんでした。
「テッラ・マードレはスローフードのアイディアから生まれたもので、農民がたがやす土のようなもの。最初は大きな収穫は期待できないとしても、それは豊かな大地であり、成果や思想が少しずつやってくる。150カ国に40万人いる世界中のいろんな人と交流して、私はこう思います。みんなが自分自身でいてくれることに感謝。」
世界大会とテッラ・マードレ2012が同時開催され、大会の参加者は、テッラ・マードレの参加者でもあります。世界大会はテッラ・マードレのワークショップになります。すべては1つとなってテッラ・マードレの精神のもとに行われます。大会参加者は会員だけではなく、25%はテッラ・マードレからの非会員を含みます。彼らも物事を決定する権利を持ちますし、政策に関与します。テッラ・マードレの参加者にも開かれた大会であるべきです。スローフードがない国でも、一緒に大会で議論をしようではないですか。それによって新しいコンヴィヴィウムの創立を促したり、より深い根をはった新しい協会を目指しましょう。
スローフードは開かれた協会です。北極星のように輝きます。地域レベルでのアクションも進めます。1つはテッラ・マードレ・デーで、今年は3回目になります。いまや1200コンヴィヴィウム、16万人が参加しました。2つめは、モロッコやケニアで行われたような国や州レベルの地域テッラ・マードレです。3つめはUSAとヨーロッパ2つのテッラ・マードレです。
2013年7月1日から14年にかけて、ヨーロッパの農業政策は変わります。それは小生産者だけでなく私たち全員に関係します。27カ国にクロアチアも入るでしょう。EUの委員ジャン・チョロスも、珍しく黙ってこちらの話を聞いてくれた。EUの農業政策転換に賛同してくれました。もはやヨーロッパ27カ国にテッラ・マードレの参加者がいるのです。変えられます。テッラ・マードレをブリュクセルで開催しましょう。来年5月に小生産者と漁業者によるロビーで開催しましょう。ヨーロッパの政策を変えることで、アフリカの政策を変えましょう。アフリカで行われている食品ダンピングをやめさせましょう。
スローフードは糸です。縫い合わせる布は若者や音楽家、業業者などの社会を表現したもの。スローフードの会員でなくてはならない理由はありません。グリンピースだっていいのです。テッラ・マードレは全員に共通に存在します。スペインからの大きな参加を期待します。スローフードがなくてもテッラ・マードレがある場所から、コンヴィヴィウムがなくても農業者を連れてゆきましょう。スローフードはAustera Anarchia(訳注: コントロールされた無政府主義。スローフードは様々であり、やっている私たちも大勢である。でもそれぞれがスローフード精神に則って進めば、自ずと一つの意思となることができるという意味)です。バスクから、スペインから300人連れてきてください。ハンガリーもポーランドも、マルタ島も。イギリスもドイツも多様性を尊重しながら、それぞれの協会をつくってください。会員証を持っていなくとも、違う思想を持っていようと、すべての地域によって1つのモデルを表現しましょう。イデオロギーに閉じこもっていてはいけません。
2010年のテッラ・マードレに、アメリカのあらゆる州から参加があったことは喜ばしいことです。テッラ・マードレUSAは春に開催されます。地球全体を視野に入れたイベントにしていただきたい。とかく1年半の情熱が私たちをまっています。
アフリカに1000の菜園というのは、私たちのような小さな協会にとって、非常に多い数ではあります。ラッファエル・ペレツ(スイス代表)は似たようなプロジェクトはすでにいっぱいあるというのですが、そうは思いません。1000の菜園はケニアに200、モロッコに50、50カ国のうち20カ国に呼びかけます。それだけではなくアフリカから食科学大学に学生をよこすために、私たちがお金を調達します。彼らの勉強する権利を守りたいと思います。ここにいる皆に頼みたいと思います。それはほんの少しの貢献でも良いのです。ピエモンテの格言でこういうものがあります。「少しは少しだが、まったくないのは少なすぎ」1000の菜園について、全てのコンヴィヴィウム・リーダーに手紙を書かせていただきます。アフリカに1000も菜園を作るのは、私たちの協会だけです。ガストロノミーだけではなく、アフリカにたくさんの会員がいる協会です。菜園も運営している。私たちはそういう協会なのです。
河の中でいつまでも濡れている訳には行きません(ラッファレル・ペレツの比喩を使って)。後退か川の向こうの友愛へたどり着き、協会の意義へ向かうかです。そこは実務や規約書やビューロクラシー、お金の問題などでもめることのない場所にしたいものです。河の中で溺れて死なないように。ガストロノミーは人類の重要な一部をなすものです。世界をホリスティック(総合的)に認識するためのビジョンです。協会はJoyeuse (フランス語で喜びにあふれた)ものでなくてはなりません。会うのが楽しくなるような、それでいて確固とした信念をもったもの。協会で集まるときは、皆が大切に思えるような、楽しい友人たちに会うようなものであるべきです。現実と慎ましさと友愛をモットーとして、情熱こそが私たちの運動を他とは違うものにしてくれます。
私たちは食を楽しむためのシャツと、アフリカへの連帯という2つのシャツを着ようとしているのではありません。麻の快適なシャツを1枚来ようとしているだけなのです。
もう一つ大切なことがあります。ペトリーニもいよいよ退職するということです。会長も退職する権利があります。でもこの国際ガバナー会議は大切なものです。20カ国だけではなく、50、60カ国に参加国を増やしてゆきたいです。糸で布切れを縫い合わせましょう。
私が話すと音楽のように聞こえるらしくて、後ろの紳士は身動き一つしませんでした(うしろの昼寝スペースでいびきをかきながら寝ている男のこと)。
会場大拍手。会長スピーチ終わり
スローフード国際会議 in モロッコ(2011.6.10)-①
投稿日 2011年06月27日
スローフード協会国際会議(於 ラバト市 モロッコ)2011年6月11−13日
出席と文責 石田雅芳 佐々木俊弥
スローフード協会は一年に一度、国際ガバナー会議と複数回の国際理事会を開催しています。今年の国際理事会は3月のポッレンツォで行われたものに続いて、今年2回目でガバナー会議と一緒に開催されました。約20カ国から57名の出席。
国際理事会は国際協会のカルロ・ペトリーニ会長、ジョン・カリウキ、ヴァンダナ・シヴァ、アリス・ウオータース副会長をトップとして、会員数の特に多い国から全員で20名ほどが選出されます。国内組織があるところから1名の招聘が決まってから、日本からも1名のポストができました。
この組織は当初ペトリーニ会長の歴史的な側近たちの集まりという雰囲気のものでしたが、より開かれた中央組織を目指してこのような措置がとられました。協会の政策、プロジェクトはまずここで議論されて、国際ガバナー会議で議決をとる方式になっています。
国際ガバナーはそれぞれの国の会員数を考慮して、人数が決定されています(政策的に重要性のある場所など、例外もあり)。
現在日本の協会に割り当てられたポストは2席。この数が各国の投票権の数となります。実質上これが協会の最高決定機関となります。
2名のガバナー枠は、通常1人が国際理事をかねる形で出席することになりますが、今年日本からは石田が国際理事兼ガバナー、佐々木がもう一人のガバナーという形での出席となりました。
現在スローフード協会は、全ヨーロッパで遵守される共通農業政策(PAC)の中で、他のNPOなどと共に、大きな主導権を得ることに成功しました。これはアルカ・プレシディオやテッラ・マードレなどによる具体的な政策を積み上げてきた大きな成果です。
それと同時にヨーロッパの農業政策が圧倒的に影響を与えているアフリカにも、具体的なプロジェクトを推進しながら影響力を与えようとしています。世界の食料政策のあらゆる矛盾が存在するアフリカで、協会は今まで推進してきた生物多様性や地域経済という切り口で、アフリカはむしろ豊かな大地であるというモットーのもとに、地域産物や地域の豊かさを内外に理解させるために、「アフリカに1000の菜園」プロジェクトを推進しようとしています。
6月10日 国際理事会の模様
6月10日は現地時間午後3時より、ラバト市の旧市街メディナにある中世の貴族の邸宅で国際理事会が始まりました。イスラム様式のモザイクタイルが美しい会場は、邸宅の中庭(パティオ)になっており、1階が会場で、2階が昼食会場になっていました。今年はジャパンの新しい顔ぶれを見せるという目的で、石田・佐々木の両名で参加し、佐々木が英語で、石田がイタリア語での対応ということになりました。
国際理事会では3月のミーティングと、メールでの告知で周知されていた話題について話されました。それは4年ごとに行われることが国際議定書で定められている国際大会が、来年に持ち越すということです。これはテッラ・マードレを主幹として協会運動を進めてゆくという国際戦略に合わせたもので、来年行われる10月のテッラ・マードレ、サローネと同時開催で国際大会を行いたいというものでした。
この行事に先立って、テッラ・マードレの地域ミーティングを積み重ねて行くのですが、その中でも2つの重要イベントがあります。それは来年5月を目指した「テッラ・マードレ・ヨーロッパ」と「テッラ・マードレUSA」です。
前者はEU政策の拠点であるブリュッセルで行われるもので、ヨーロッパ主要国27国からの代表でイベントを構成します。後者はUSAの運動を支えている若者や、食コミュニティの力を使いながら、2012年夏を目標にオーガナイズします。
東日本大震災 支援⑥
スローフード気仙沼への支援金
投稿日 2011年05月05日
5月3日、スローフードジャパン副会長の佐々木俊弥さん(スローフードすぎなみTOKYO代表)は、宮城県気仙沼市を訪れ、スローフードジャパン・東京/神奈川ブロックが募ったスローフード気仙沼への支援金を、理事長の菅原昭彦さんに直接手渡しました。
この支援金は<顔が見える相手に、直接支援>を訴え、震災直後の3月14日にスローフードジャパン・東京/神奈川ブロックが呼びかけたものです。
(参照→http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/03/1361/)
その結果、5月2日までに、全国各地のスローフードメンバーやその知り合い、このwebサイトの閲覧者、スローフードすぎなみTOKYOと交流があるスローフードベルリン、東京・新宿の居酒屋「あいうえお」などから合計940,997円が寄せられました。また、4月13日に日本料理のチャリティー・ビュッフェを開いたスローフードベルリンからは、参加者がスローフード気仙沼のメンバーにメーセージを書き込んだノートも届きました。左の写真は、そのノートに見入る菅原さんです。(参照→http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/04/1489/)
菅原さんのご家族は全員無事でしたが、スローフード気仙沼のメンバーの方が1人亡くなりました。また、菅原さんが営む男山本店という日本酒の酒蔵では、数人の方が亡くなり、家を失った社員も何人かいます。「ここ気仙沼では、生きている人が100人いると、300のドラマがあるんです」と、菅原さん。
菅原さんはこう語ります。「漁業の町・気仙沼では、漁業生産者への直接的な支援は難しいでしょう。今後求められるのは、つながりを絶やさない継続的な支援です。今回の震災は、地域社会を大きく変えます。スローフードにできることは、その変化のなかで、この土地で培われたきた伝統や漁村文化を継承してゆくことです。私の友人は、『いままで、おれたちは海から色々な恵みを受けてきた。今回の津波で、おれたちはそれをいったん海に返したんだ』と、言っています」
5月4日午後4時現在、気仙沼市で死亡が確認された人は913人。行方不明者663人。全壊した家8,383戸。半壊した家1,861戸。人口約73,000人のうち4,930人が、市内51の施設で避難生活を送っています(宮城県調べ)。
市内中心部の、巨大な力で引き裂かれた人間の暮らしを見て、佐々木さんに同行したスローフードすぎなみTOKYOのメンバーは、ただ立ち尽くすだけでした。
しかし、復興の歩みはすでに始まり、菅原さんはその一端を担っています。港に面していた男山本店の事務所は昭和初期の建築で、国の登録有形文化財に指定されていました。事務所は、1・2階部分が消滅。3階がそのまま地上に落ちてしまいました(写真下)。地盤沈下のため、満潮時には前の道路が冠水します。酒蔵にも、門の数メートル手前まで海水が押し寄せましたが、幸いにも津波の被害は免れました。そして、昨年11月に仕込んだタンク2本が無傷で、なかから「もろみ」が呼吸する音が聞こえたそうです。復興を望む被災者の声に押された菅原さんは、その「もろみ」で新酒造りを決意し、3月28日に銘酒「蒼天伝(そうてんでん)」を絞り終えました。菅原さんの新酒造りはテレビで伝えられ、報道された新聞や雑誌の記事や、励ましのメールが新たな事務所に貼られています。
↑ 震災を乗り超えて生まれた、気仙沼・男山本店の「蒼天伝」
東日本大震災(東北関東大震災・東北太平洋沖地震) 支援④
スローフード沖縄・奄美からのたより
投稿日 2011年04月22日
4月20日、スローフード沖縄・奄美が主宰するNPO法人「食の風」は、 震災被災者を支援する『沖縄でニッポンを復興させる会』を設立し、 沖縄本島・中部の宜野座村(ぎのざそん)に、 福島第一原発事故の被害者など15家族受け入ることを発表しました。
この日、スローフード沖縄・奄美会長の田崎聡さんは、設立5団体の代表者とともに、沖縄県庁で記者会見を開催。会の設立と、宜野座村(ぎのざそん)による15家族受け入れが、新聞各社・テレビ各局で報道されました。→ Okinawa Zinoza 01 4月9日正午現在、沖縄在住の震災避難者は887人(朝日新聞調べ)。しかし、その多くは沖縄出身者や個人的な関係による避難で、自治体と民間団体が行う組織的な受け入れは、沖縄県では初めてです。避難者の住居費は、1年間無料(光熱費別)、那覇への航空運賃も無料(暫定5月末まで)。受け入れ農家での農作業のほか、休耕農地での耕作が可能です。
受け入れ先となる宜野座村は、那覇空港から沖縄自動車道経由で約1時間半。人口約5,500人の沖縄本島中部に位置する村です。阪神タイガーズのキャンプ地として知られ、また、漢那ダムをはじめ5つのダムがある沖縄の水瓶です。昨年3月、「有機の里」宣言をした宜野座村は、環境保全型農業を地域ぐるみで目指しています。したがって、環境保全型農業を目指す方たちにとって、うれしい場所です。
宜野座村エコ野菜研究会の志良堂貢さん(写真下・左)は、10年前から化学肥料を一切使わず独自の肥料を開発し、無農薬で野菜を栽培するために、在来種のクモやカエルを使って害虫の駆除をしています。「宜野座で、マッチョンドー(宜野座で、待ってるよ)」と、志良堂さん。また、3年前に農業研修で宜野座村に来た菅野里志さん(写真下・右)は、福島県出身。研修終了後、宜野座村に移住してイチゴなどを栽培しています。菅野さんは、JAの支援体制や行政のバックアップがしっかりしていて、移住を決意したそうです。スローフード沖縄・奄美の田崎さんは、「被災地と沖縄との交流を通して、第一次産業から復興につなげてゆきたい」と、語ります。
↓ 『沖縄でニッポンを復興させる会』(設立趣意書) Okinawa Ginoza 03
また、4月17日、那覇市久茂地のフレンチ・レストラン「メゾン・ド・フジイ」は、震災復興へ向けたチャリティー・ディナーを開き、売り上げを、スローフード沖縄・奄美を通してスローフード気仙沼の支援に寄付してくださいました。

























