東日本大震災 支援⑨  気仙沼・冬

投稿日 2012年01月27日

<あの日>から10ヶ月経た気仙沼を、再び訪れました。そこで見たのは、5月に訪れたときと同じく、私たちの想像を超えた自然の力の凄ましさです。瓦礫の撤去が進む被災地域は広大な荒野となり、たとえそこに再び街が出現しても、以前の営みが刻まれるのは記憶のなかだけかもしれません。しかし、その荒野には自分たちの暮らしを取り戻すだけではなく、新たに作り出そうとする方たちの熱き想いがありました。

東日本大震災の津波が気仙沼市にもたらした瓦礫は、約137万トン(新幹線「のぞみ」約19,000本[編成]に相当)。その約32パーセントが、撤去されました(気仙沼市1月14日発表)。瓦礫に埋もれていた場所の多くは、いま更地に近い状態になっています(→写真右)。しかし、市内には仮設のプレハブ家屋以外新築建築は見当たらず、再建は進んでいません。被災した土地の乱開発を防ぐために実施された建築制限が解除された地域でも、都市計画が決定していないので新たな建物を建築しづらいのです。気仙沼湾に面する市街地の一部は、70センチ以上の地盤沈下で海水が引きません。湾のいちばん奥・鹿折地区では、津波で海から約800メートルも打ち上げられた『第18共感丸』(330t)が、市の計画で震災の記録モニュメントにするため解体されず残されています(↓写真下大)。

スローフード気仙沼のメンバー小野寺靖忠さんは、津波で自宅と市内で経営するコーヒーショップを2軒を失いました(←写真左)。カフェラテが美味しいと評判だった小野寺さんの『アンカーコーヒー』は、コーヒー豆にこだわり自家焙煎をしていました。仕事でアメリカ西海岸を訪れる機会が多かった小野寺さんは、「豊かさには、選択肢の多さも重要です。生まれ育った気仙沼に新たなライフスタイルを提案したかった」と、2005年シアトルスタイルのコーヒーショップを開店しました。そして、昨年の3月11日、店舗が増え5軒になった頃、漁港近くの本店と少し離れた支店を津波に飲み込まれました。しかし、小野寺さんは2ヶ月後店を立て直すファンドを立ち上げます。そして、昨年暮れの12月23日、市内・田中前4丁目の仮設店舗で店を再開したのです(↓写真下)。                  再開した『アンカーコーヒー』には、                                             <この地より再び船出する、乗組員と共に、気仙沼と共に、海と共に>                                    と記すポスターが張り出されていました。

スローフード気仙沼の理事長・菅原さん。「私たちは東日本大震災で被害を受けたから、気仙沼の復興を語っているのではありません。私たちはこの地域の復興を、スローフードジャパンが発足する前から掲げていました。スローフードの支部を作ったのは、その考え方にたまたまスローフードの理念が合っていたからです。だから、漁業と関わりの深い気仙沼を活性化させるために、2004年にイタリアで開かれた<スローフィッシュ>にも参加しました。震災後のいま訴えることも、いちばん重要なのはスローフードが理念とする『人間の復興』です。いま、何か新しいことを訴えているのではないのです。私たちが望むことに意味付けし、広めるのがスローフードの役割だと思います」(→写真右上は、菅原さんの事務所。1,2階が津波に流され、3階部分だけそのまま落ちた)

スローフード気仙沼はスローフードすぎなみTOKYOとは異なり、飲食業に携わる事業者の方たちが多い支部(コンビビウム)です。スローフードの<おいしい、きれい、ただしい>というスローガンは、生産者や消費者だけに向けられているのではありません。飲食業に関わるすべての人たちに、「食」の在り方を問いかけています。漁業と海産物加工の町気仙沼では、復興の入り口と出口にスローフードがある、と菅原さんは言います。

2012年1月のある夜、仮設店舗の居酒屋で、スローフード気仙沼のメンバーと酒を飲み交わしました。皆さんは気仙沼の現実と復興を明るく、たくましく、熱く語ります。そして、その熱き想いが、私たちが被災地に持つ思い込みや誤解、独善を吹き飛ばすのです。私たちは気仙沼のメンバーに、元気をたくさんいただきました。
 

昨年の3月14日、大震災の発生にともない、スローフードジャパン・東京/神奈川ブロックはスローフード気仙沼を支援する緊急アッピールを発表しました。                       → http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/03/1361/                            そのアッピールに応えてくださった全国のコンビビウムやこのページの閲覧者の方々、とくに、チャリティイベントを開き支援金を送ってくださったスローフードベルリンの仲間に伝えます…。→ http://www.slowfood-suginami.com/forum/etc/2011/04/1489/

              スローフード気仙沼は、元気です!!

 

東日本大震災 支援⑧
宮城県・長面(ながつら)浦の焼きハゼ

投稿日 2012年01月20日

東日本大震災は、私たちの味覚にも痕跡を残します。
仙台の雑煮に欠かせない焼きハゼで、もっとも伝統的な長面(ながつら)浦の焼きハゼが消えてしまうかもしれません。
それぞれの地域で、数少ない生産者によって受け継がれてきた食材・食品を残す活動は、スローフードが提唱する重要なテーマのひとつです。

<長面浦の焼きハゼ>は、2005年ほかの8品目とともに日本で初めてスローフードの「味の箱船(ARK)」に選ばれました。「味の箱船」とは、このままでは消えてしまう伝統的な食品・食材を、世界的なガイドラインに沿ってリストアップするスローフードの国際的なプロジェクトです。焼きハゼは松島湾などでも作られていますが、<長面浦の焼きハゼ>には焼いた後に煙で燻す古い製法が残されていました。また、その製法を代々受け継いできた事が評価され、「味の箱船」にリストアップされたのです。

(←長面地区の子供たちが通った大川小学校で。ここで、74人の児童が犠牲になった)

 

長面浦は北上川の河口に接する海水が出入りする湖で、周囲8キロほど。牡蠣の養殖やハゼ漁が行われていました。その湖に面した長面地区は津波のために漁港も含めたすべてが失われ、満潮のときは地震による地盤沈下で、住宅地のほとんどが海水に浸されます。震災前、約500人が住んでいた長面では、69人が亡くなり25人がいまも行方不明です。焼きハゼを作っていた榊照子さん(68)のお父さんの遺体が見つかったのは、9月17日でした。

追波(おっぱ)川河川運動公園の仮設住宅で、照子さんは語ります。「被災後は、長面浦には行きたくありませんでした。でも、6月に避難所からここへ移り、7月に船が瓦礫の中から見つかったので、せめて漁網だけでも注文しようと思いました。父の遺体が見つかったのは、9月です。スローフード宮城の方は、震災直後から何回も訪ねてきて、焼きハゼ作りの再開に協力を申し出てくださいました。長面浦では、ほかの魚はほとんど獲れなくなったのに、ハゼだけは獲れるんです。それで、もういちど作ってみようと決めたのは11月頃です」 照子さんは、12月に50連約600匹の焼きハゼを作りました。              (↑写真上 左・榊照子さんの家があった周辺。 写真上 右・潮が満ちてくると海面になる、と言う。→写真右 上・運動公園の仮設住宅。写真右 下・左側が照子さん。右側はお母さん)

しかし、スローフード宮城とスローフード仙台のメンバーが壊れた車庫を利用して作った、ハゼを焼くための仮作業場はもうすぐ取り壊されます(↓写真下)。次の作業場は、場所さえまだ決まっていません。また、岸壁も全壊したため、ハゼ漁に使う船はかろうじて残った堤防の片隅に係留されています(←写真左)。<長面浦の焼きハゼ>作りは、この冬なんとか再開できたものの、来シーズンの見通しは立っていないのが実情です。スローフード宮城とスローフード仙台では、<長面浦の焼きハゼ>復活募金を、下記のように行っています。

①募金額 / 一口¥3,000円(少額でも、何口でも結構です)
②振込先 / 杜の都信用金庫 本店営業部
口座名義: スローフード宮城
口座番号: 普通預金 1581336

 

<長面浦の焼きハゼ>がリストアップされている「味の箱船」は、スローフードが考える生物多様性につながっています。スローフードが考える生物多様性は、科学的な意味での多様性だけではなく文化としての多様性です。そして、味覚は文化の多様性を語る要素のひとつです。       <おいしい・きれい・ただしい>を掲げるスローフードの原点は、そこにあります。                <長面浦の焼きハゼ>が姿を消すとき、それは何を意味するのでしょうか……。 

 (↓かつての長面地区)